舞台芸術にコミットする方法は決して真正面からだけではない

in 再録 on 2015年4月9日

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『シーディンの夏』

制作者の植松侑子氏が、自身の経験に基づくキャリアの変遷を説明した「実感的ものがたり:もし舞台芸術制作者志望の大学生が10人いたら」を掲載しています。

確かに、学生時代から舞台制作に関わっていたらこれに近い状況だろうと思いますが、最初は制作者を職業とせず(出来ず)、舞台芸術の周辺業界(マスコミなど)や休みが取得しやすい業界(公務員など)に就職し、ハーフタイムで舞台制作や中間支援を続ける人も多いのではないでしょうか。あるいは全く別な業界に就職し、間接的な形で舞台芸術に貢献する人もいると思います。

もちろん、フルタイムの制作者が増えることが舞台芸術の発展のためには望ましく、それを可能にする環境が少しずつ整ってきたとは思いますが、収入源を確保するまではハーフタイムを続けたり、離れた業界から舞台芸術に影響を与える生き方もあるわけで、舞台芸術にコミットする方法は決して真正面からの正攻法からだけではないことを、若い人たちは知ってほしいと思います。そして、夢はいつまでも持ち続けるべきです。

中には舞台制作を志していながら、全く異なる家業を継がなければならない人もいるでしょう。そんな人が年齢を重ねてから、家業で成功した資金力でエグゼクティブプロデューサーになってもいいわけです。舞台芸術に関わる方法は人生の数だけある、と私は思っています。

この文章を書きながら、普通の会社勤めをする20代の女性が個人で商業映画の配給をしたことを思い出しました。2003年に公開された『シーディンの夏』という台湾映画で、第15回東京国際映画祭や世界各地の映画祭に正式招待された作品です。個人の映画配給プロデューサーやバイヤーはめずらしくありませんが、仕事ではなく映画配給をするなんて聞いたことがありません。

「蛍」という名前で活動した彼女は、ENBU[演劇&映像]ゼミナールの映画配給・宣伝コースでノウハウを学び、貯金すべてを買い付けと宣伝に注ぎ込んで、この映画を日本に紹介したそうです。試写会や宣伝は仕事の合間を縫い、監督の来日プロモーションのときは、会社に「台湾から大切な知り合いが来る」と言って休んだそうです。

「蛍」氏の存在はマスコミでも話題になりました。日本経済新聞東京本社版2003年10月31日付夕刊では、作家の藤原智美氏がエッセイで彼女のことを詳しく紹介しています。会社を辞めないのは「無条件に好きなことと会社の仕事とを両立させたかった。配給の仕事は心のバランスをとるため」と語っています。学生だった鄭有傑(チェン・ヨウチェー)監督が助成金で撮影した16mmの60分作品、その単館レイトショーなので、リスクは演劇公演とさほど変わらないと思いますが、商業映画の分野でいきなり個人配給してしまう行動力に目を見張ったものです。

宣伝費がないため、記事はすべて無料のパブリシティに頼ったそうですが、マイナーな作品にも関わらず、多くの媒体が紙面を割きました。台湾では兵役義務があるため、監督は日本での公開直前から軍隊生活を送ることになり、来日プロモーションを早めました。このエピソードが逆に記事を書かせる要因にもなりました。公開初日の舞台挨拶は、彼女が監督の手紙を代読したそうです。

その後、「蛍」氏が映画業界に転職した話は聞きませんので、配給はこの1本だけだったのかも知れませんが、私の心に残るエピソードになっています。彼女は職業としてではなく、本当に届けたい作品を届けることに全力を注いだのでしょう。ハーフタイムのお手本となる事例だと思います。

好きなことを実現するために、あらゆる可能性を、あらゆる方法を試してください。

※本記事は、fringe[雑学]「普通の会社員が個人で商業映画を配給!」(2003年11月1日初出)に加筆・修正したものです。

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